療養中の先生に代わって臨時でいらした、ベテランの音楽の先生。ふと思いついて小学校の先生だった祖父の名前を出したところ、なんと新任の時にお世話になったとのこと。何事も伝えてみるものですね!
さらに驚いたのは、その頃祖父は退任間近のベテランの教師だったそうで…当時新卒だったその音楽の先生に、直筆の書を贈ったとのことでした。40年以上前の祖父の書をその先生は額にいれて今も大事にしてくださっていて、これを機に私に贈ってくださったのです。
「私が教員生活で大切にしてきたものを、お孫さんにお返しできてよかった」
なんとも不思議なご縁というか、人間の不思議、人生の不思議を感じました。
最近あまり「和」という言葉を聞かなくなった気がします。私自身もあまり使わなくなっていましたが、私が中学生、高校生の時は学校の中で「和を大切にしよう」とよく先生や仲間が声をかけてくれたように思います。
聖徳太子の十七条の憲法の第一条は、和を以て貴しと為す、でした。合唱指導を通じて学校教育に関わる身として、和の精神とはなんであったか、これを機にもう一度考えていきたいと思います。
和やかな顔で、愛を(込めて)語りかける。
愛の意味、も最近の私のテーマです。愛ならば、どうあるかを考え続けたこの数年でした。
学校現場に関わって、最近は自分にとって都合の良いことを言ってくれる・許してくれることを「愛」だと勘違いしている大人や子どもがいるように感じています。優しいと言われることの多い私ですが、優しさの意味を履き違えたくない。
私は時おり厳しい言葉や態度で子どもに向き合うこともあります。
あなたは本当にそれでいいの?それがあなたの望む姿?私はそうは思わない。
もちろんできるだけ和やかな表情で、それはあくまで人の和を大切にすることに重きを置いて。先に生きる人間として、相手のために、未来のために何ができるか…愛の意味を問いながら、これからも人や音楽に向き合っていきたいです。
「和顔愛語」に続く言葉「先意承問」も、これを機に知りました。
相手の思いを汲みとり、できる限り理解に努め、自分に何ができるかを常に問う、と解釈しました。既に亡くなっている祖父からのメッセージを、ありがたく受け取りました。
最近の私の悩み?は、お仕事をたくさんいただくにつれて、学校では教員のように、仕事ではビジネスマンのように、マルチな能力を発揮する自分にならなければいけないのだろうか?との葛藤でした。
しかし何か腑に落ちない…
学校の先生のように生徒指導しても、何かピタリと決まらない。子どもも私も入っていかない。
ビジネスマンのように名刺交換して交渉の席についても落ち着かない。見積もりだ企画書だと頑張ってやっても、何かうまくいかない。そして私は音楽家としての自分が開花していくにつれ、社交辞令が言えなくなってきました。おかしいことはおかしい。自分にも相手にも嘘がつけないのです。
そんな折り、ふと教え子がかけてくれた言葉がありました。
「いい人になるんじゃなくて、いい音楽家になればいいんじゃないでしょうか?」
私の中で何かがクリアになった瞬間でした。
人間は不思議な生き物だなあと心から思います。
祖父の言葉や子どもたちの言葉に生かされて、これからも人や音楽を大切に、和と愛の意味を考えていきます。そして、私に何ができるのかを問い続けたいと思います。







